第30回オリンピック競技会ロンドン大会が8月13日早朝(日本時間)に閉幕しました。293名の日本選手が38個のメダルを獲得したことは、皆さんまだご記憶に新しいところでしょう。東高芸とオリンピックとのささやかな出会いや、裏話をご披露します。
昨年発行された会報第38号の「東高芸の会」ページに、伊東祐義会長(1936年3月東京高等工藝學校工藝図案科卒業)が会の成り立ちについて、「有志による任意団体として1996年(平成8年)に発足、同年9月に会誌<東高芸>を創刊、10月20日に第1回懇親会を開催したのをはじめとして活動を続け現在に至っている」と説明されています。「東高芸の会」が発足した1996年の夏には、アメリカのアトランタ市で第26回オリンピック競技会が開催されていました。
世界の大都市のどこかで4年毎にオリンピックが開催されますが、競技場の座席から直接観戦できないとなると、電波での実況放送や、文字と写真による新聞報道が頼りになります。日本のラジオ放送は東京市芝区新芝町(現港区芝浦3丁目)に開校した東京高等工藝學校の図書室の一部を仮放送所として、1925年(大正14年)3月22日に東京放送局(後の日本放送協会、現在のNHK)が仮放送を始め、日本のラジオ第一声は我々の母校の校舎から送り出されたのです。
伊東会長が工藝図案科を卒業された1936年に開催された第11回オリンピック競技会ベルリン大会では、女子水泳200メートル平泳ぎで優勝した前畑秀子選手ゴール前の力泳を、「前畑ガンバレ、ガンバレ」と絶叫で日本に伝えた実況放送が、歴史に残りました。
電送写真は、1928年(昭和3年)に国内で有線電話を使って実用化に成功しましたが、同年7月に開催された第9回ロンドン大会と1932年の第10回ロスアンゼルス大会には無線化が間に合わず、やっとベルリン大会で、表彰台上の前畑秀子選手と2位のゲネンガー選手(ドイツ)が水着姿で握手する写真が「ベルリン─東京間無線電送実験写真」の注釈付きで通信社から配布され、翌日の紙面を飾りました。各新聞社とも同じ写真でしたが、無線の状態が悪く、ノイズの多い雨降り写真だったので、各社思い思いに修整した結果、新聞に印刷されたお二人の履き物は、草履、半靴、サンダル、駒下駄など、まちまちでした。
8月2日(日本時間)開会式での日本選手入場行進の写真のネガは、ベルリンからシベリア鉄道の一駅であるスウェドロフスクヘ空輸され、満州里までシベリア鉄道便、満州里で新聞社の社有機に移されて大阪へ空輸、大阪本社で処理されて東京へ電送という経路で、写真号外となって発行されたのは8月10日でした。(毎日新聞社の記録による)
1948年(昭和23年)の7月30日に開幕した第14回大会開会式の写真は、ロンドン→ニューヨーク→サンフランシスコ電送、サンフランシスコ→東京空輸という経路で、8月3日付の日本の新聞に掲載されました。占領下で、日本の国際無線電送回線の運営や航空機の運航は認められておらず、サンフランシスコから東京への空輸は、当時のパンナム航空が頼りでした。
1952年(昭和27年)の第15回ヘルシンキ大会からテレビジョンが報道メディアとして登場しましたが、画面は白黒。ビデオテープレコーダーの登場はまだ先のことで、放送用の録画は、ほとんど16ミリフィルムで行われました。
1950年代後半にテレビ局で活躍されていた東高芸と東京工専出身者には、6回卒の山岡恒雄氏(日本テレビ)、20回卒の佐々木巌氏(NHKテレビ技術部)、21回卒の田原達也氏(NHKテレビ)、22回卒の畑幸男氏(東海テレビ)、23回卒の小貫道雄氏(日本テレビ)らがおられます。
東京は、1940年(昭和15年)に第12回オリンピック競技会の開催が決まっていましたが、第二次世界大戦で中止となり、はじめて開催されたのは、1964年(昭和39年)でした。テレビの画面はカラーになっていました。しかし、録画はカラーVTRが未登場で、記録映画の撮影とともにカラーフィルムが使われました。市川崑監督の記録映画「東京オリンピック」のカラーフィルムを完璧に処理し、市川監督に賞賛されたのは、当時の東洋現像所東京工場に勤務していた工専27回卒の岡田貢氏でした。
1922年(大正11年)4月25日の東高芸第一回入学式から、ちょうど90年が過ぎました。東高芸と東京工専の出身者は、昭和という、すさまじい変革の時代に教育を受け、卒業後は軍務と仕事に追われながら、世のさまの移り変わりと、その進歩を見ながらリタイアして、ロンドンでの出来事が、3時間後には東京でカラー写真号外になるご時世を迎えています。思い出となる品々は、工学同窓会のアーカイブスに残しておきましょう。
(東高芸の会 広報担当 江越壽雄)